今回の話は少し重たい話になるかもしれない。
読んだ人によって色が変わる。ある人には暗い話に見えるかもしれないし、ある人にはただ静かに自分の影を見つめる人間の記録に映るかもしれない。
どんな色で受け取られたとしても、これは私にとって必要な通過点であり、避け続けてきた影にようやく光を当てるための”ひとつの記録”になる。
読者を不快にさせてしまうような、強く、攻撃的な言葉も出てくるかもしれない。幻滅させてしまうかもしれない。それを承知のうえで、誤解を恐れずにいま心に浮かんできた言葉を嘘偽りなく綴っていこうと思う。
普段の私は、いわば感情の量を絞って生きている。怒りがあっても表に出すことはほとんどなく、落ち込むこともあまりない。周りからは「メンタルが強い」と言われるし、自分でもそれは自覚している。
SNSやブログでは感情表現を誇張することがあるけど、それは感情の起伏を激しくしたほうが読者に伝わりやすいからであって、実際の私はその5分の1ほどの感情しか抱いていないことがほとんどだ。近しい人達からは「怒っている姿を想像できない」とさえ言われる。
けれどそんな私にもたった一つだけ、触れられた瞬間に心の輪郭が崩れてしまう急所がある。それが私がずっと避け続けてきた「地雷」だ。
どんなに強がっていても、その部分だけにはどうしても耐性がない。触れられるたびに過去の痛みが波のように押し寄せ、穏やかだった湖面が一気に荒れ始め、普段は動かないはずの感情が濁流のように流れ込み、呼吸すら苦しくなる。
本当はその地雷が生まれた理由をここにすべて書いてラクになりたい。でも今の私にはそれを語る勇気もなければ、余裕もない。あまりに踏み込むと、過去の忌々しい記憶が鮮明に蘇ってしまうからだ。
だから今回はあくまで表層だけの話かもしれない。それでも、いま言葉にして外へ吐き出さなければ、きっと私は壊れてしまう。だから今回は「外へ言葉を差し出すこと」を目的にこの記事を書くことにした。
これは私が前に進むため、そして私が自分を守るために書く文章だ。
私は、社会に対して時折どうしようもなく強い憎悪を抱いてしまう。
誤解を恐れずに言えば、私はずっと「理解されない側の痛み」を抱えて生きてきた。子供の頃から私は責められる立場の人間だった。否定されることが多く、言葉そのものを取り上げられることも多かった。
もちろん、私の心の奥を理解してくれる友人たちもいた。
でも一般的な社会の中では、私はいつも「間違っているほう」へ押し込められた。対立が起こると、社会はよくも悪くも弱者の味方をする。「可哀想だから」という表面的な理由だけで。
たとえ私の言い分に正当性があっても、「相手は弱者なのだからお前が我慢しろ」そう言われて終わることが多かった。その優しさは美しいものではなく、ただの無責任だった。
その安易な正義は私を何度も苦しめてきた。当事者ではない人間が軽々しく肩を持つその姿勢は、私の声を潰し、傷に塩を塗る行為でしかない。
私はそんな人達を、心の中で「出しゃばり偽善者」と呼んでいる。
この言葉はただの悪口ではない。私の人生を削ってきた存在への、私なりの精一杯の抵抗だと思ってほしい。
彼らは私の苦しみには向き合わない。当事者の痛みに触れようとしない。ただ「弱いものを庇った」という自己満足だけを持ち帰っていく。
私の意見も、私の正しさも、私の痛みも、「強いほうが我慢しろ」という理論で見捨てられた。そのたびに私はひとつずつ言葉を奪われ、孤独だけが積もっていった。
私はその無責任な優しさを心の底から憎み、いつしか「この世界には敵しかいない」と思うようになった。大人になり、ある程度多くの経験を積んできた今でもそれは変わらない。
そんな背景の中で、私の心にはひとつの大きな地雷ができあがった。それはある出来事を境に私の人生を左右するほど巨大になり、今もなお私の中で重く鎮座している。(詳細は書かないけど、”人格の根本が揺らぐほどの経験”とだけ書いておく)
その地雷を踏まれると、私は怒りではなく”虚無”に落ちる。すべてを諦めたような、どこにも寄り掛かれない感覚。世界の音が遠のいてしまうような、あの沈んだ空気に飲み込まれていく。
そうなると私にできることは静かに黙り込むことだけ。感情的になることはない。感情すらわかない。ただ押し寄せる絶望感を抱えながら、脳が強制的にシャットダウンするような感覚だ。(人間の脳は本当によくできている)
どうせ誰もわかってくれない。わかってほしいとももう思わない。
そう考えるようになった私は対立を避け、できるだけ何も起こらないように静かに生きるようになった。それが自分を守る唯一の方法だったから。
こんなふうに書くと、私は人間不信の塊に見えるかもしれない。
でも実際はそうではない。私は私と関わってくれる人たちを心から大切に思っている。他者への愛情は今もちゃんと残っている。
大切な人は大切なまま、何も変わらない。
ただ、問題はその外側の世界がふいに私の地雷を踏んでくることだ。ふとした拍子に過去の痛みを呼び覚まされると、大切な人以外の世界がすべて敵のように見えてしまう。
私はそれが何よりも怖い。
それでも私は壊れていない。壊れてしまいたいわけでもない。ただ、誰にも理解されることのなかった痛みを抱えたまま今日まで生きてきた、ただそれだけ。
今回、久しぶりにその地雷を踏まれた。その衝撃は思っていた以上に大きく、日常生活にも、仕事にも支障が出始めている。
普段は「鬼メンタル」と呼ばれるほど強い私だからこそ、こういう時の対処法を知らない。だから余計に何も手につかなくなった。
(仕事/プライベート問わずメッセージの返信が遅れていることに対しても、ものすごく申し訳なく思っています。)
こんな状態だけど私は逃げるのをやめようと思った。この地雷はおそらく今後の人生でも現れ続ける。だからどこかで断ち切らなければならないし、未熟な私はもっと今以上に強くならなければならない。
でなければ、私はいつか自分で自分に矛を向けてしまう。
人生を悲観しているわけでは全くなくて、これは私が初めてその問題に正面から向き合おうとしている過程だ。未熟な自分なりに前を向こうとしている。
それに、逃げるのをやめた瞬間から私の中に不思議なほどの闘争心が生まれているのを実感する。父親譲りの強靭メンタルがここにきて私を救ってくれている。
この地雷は私にとって一生ついてまわる強敵かもしれない。けれど私は負けるつもりはないし、負けたときは本当に人生そのものを諦めてしまう覚悟を持たなければならない。共存する考えは今のところない。
どうにしかして、私は自分の本来の人生を取り戻したい。
これは私の弱さの告白ではないし、哀れんでほしいわけでも、理解を求めているわけでもない。自分の人生にもう一度向き合うという、私なりの宣言だ。
深刻に聞こえるかもしれないけど、意外と私は前向きだったりする。落ちるときは落ちるけど、そのあとにはだいたい闘争心が湧くし、最終的には「ま、なんとかなるでしょ」って立ち上がるタイプだ。
だから今回も、まあ大丈夫。ちょっと時間はかかるかもしれないけど、私は私のペースでちゃんと立て直すつもりだ。
そんなわけで、また👋


